2009年07月01日

社会民主主義の成長と挫折

1880年代から1890年代にかけてドイツ社会民主党が急速に勢力を拡大し、第二インターナショナルの中心的政党となった。マルクス主義者のカール・カウツキーが同党の中心的理論家として活躍し、マルクス主義の権威も高まった。マルクス主義はゲオルギー・プレハーノフによってロシアにも持ち込まれ、ロシア社会民主労働党のイデオロギーとなった。
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1889年には社会主義者の国際組織として第二インターナショナルが設立され、ドイツ社会民主党が中心的な役割を果たした。しかし1914年に第一次世界大戦が始まると、加盟政党は国際主義的な戦争反対の主張を放棄してそれぞれ自国政府の戦争を支持し、第二インターナショナルは瓦解した。戦争反対を貫いたのはロシア社会民主労働党の分派であったボリシェヴィキをはじめとするごく少数だった。

ボリシェヴィキは1917年10月にロシアで武装蜂起を成功させ(十月革命)、権力を獲得した。1918年にドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱し、土地の社会化や労働者統制などの政策を実施した。また、党名をロシア共産党に変更し、1919年にはコミンテルンを設立してヨーロッパの革命を支援した。

2009年06月13日

代数学における離散対数(りさんたいすう)

代数学における離散対数(りさんたいすう、discrete logarithm)とは、群論における対数の類似物である。 離散対数を計算する問題は整数の因数分解(en:integer factorization)と以下の点が共通している:

両方とも難しい(量子コンピュータ以外では効率的に解くアルゴリズムが得られていない)
片方に対するアルゴリズムはしばしばもう片方にも利用できる
問題の困難性が暗号系の構築に利用されている

離散対数の簡単な例は、素数 p を法とする整数の乗法群 で考えるとよい。 これは1から p − 1 までの整数の集合であり、 p を法とする乗算に対して群をなしている。

この群においてある元の k 乗を知りたければ、 普通の整数として k 乗した後に p で割ったときの剰余(余り)を取ればよい。 例えば を考える。 この群において 34 を求めるには、普通の整数として34 = 81を計算し、 81を17で割って、余りの13を答えとする。 なお3を掛ける毎に剰余を計算してもよい。

この逆操作が離散対数である。 すなわち「 のとき、この式を満たす k はいくつか」という問である。 これには実際には無限個の解があるが(解に17の整数倍を足してよい不定性があるため)、 普通はそのうちで最小の非負整数を選ぶ。 すなわち k = 4 である。

群 G における離散対数 logbg を計算する効率の良いアルゴリズムは知られていない。 ナイーブなアルゴリズムとしては、b の1乗、2乗、3乗、…を順に計算し、 求める g が得られるまで続ける方法がある。 このアルゴリズムは G の位数について線形な、すなわち要素の桁数(特に、何ビットか)について指数的な実行時間を要し、 巨大な G に対して実用的でない。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方


より高度なアルゴリズムも知られており、代表的なものを以下に挙げる。 整数の因数分解アルゴリズムと同様のアイディアが多い。 これらは上記のナイーブなアルゴリズムより高速であるものの、多項式時間では計算が終わらない。

離散対数の計算は難しい問題(効率良いアルゴリズムが知られていない)だが、 逆の過程である離散的な冪乗は容易(→冪乗#効率的な演算法)である。 この非対称な関係は整数の因数分解と乗算との関係に似ている。 これらの非対称性は暗号システムの構築に利用される。

最近の暗号システムでは有限体上の楕円曲線の周回部分群における離散対数を利用する。

2009年06月08日

伝統的に大乗仏教を信仰してきた地域の諸宗派は

伝統的に大乗仏教を信仰してきた地域の諸宗派は、これらの大乗の経典は釈迦が成道して以来40数年の間のどこかで説かれたものとみなしていたが、成立しはじめた当時すでに仏教の内部から大乗経典は勝手に創作されたものであり正統な仏教とは言えないという批判があった。(上座部仏教からの「大乗経典非仏説」)現在においても主にこれを根拠に大乗仏教が否定的に評価されることも少なくない。現存する上座部の名称は、部派仏教の説一切有部の一派がほかの部派の消滅に伴い、大乗仏教に対立する意味で「上座部」を再度名乗ったことに起源があり、根本分裂のころの上座部とは違うとされている。したがって現在の上座部は部派仏教時代の一派の流れを汲んでいるに過ぎない。
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しかし近代に入ると文献学的研究が進み、仏教思想は段階的に発展したもので、そもそも上座部をも含む仏教の経典全体が数世紀という長時間をかけて徐々に成立してきたものであるだけでなく、北伝・南伝の最古の教典には「如是我聞」の記述が見られないことが日本でも「法華経無内容説」を唱えた富永仲基によって指摘されている。実際に、富永仲基などは、如是我聞は、もともとは又聞きを意味し、釈迦から直接聞いたという意味ではなかったと主張した。現在の学会でも現存する南伝および北伝の教典に釈迦の言葉が実際に伝えられているのか、それともあくまで、その時代時代のサンガの思想が釈迦の言葉としてのちのサンガに伝えられたのかは大いに議論されている。結局のところ現在の研究では、南伝・北伝のほとんどの教典に釈迦が直接説いた教えは見られないとの主張もあるし、大乗経典が文献学によって紛い物であることが証明されたとする主張などがあり、定説はない。

しかし現在でも上座部仏教の教団は、上座部が本当の釈迦の教えを伝えていると主張しており、それに対し大乗仏教側にはその正統性を主張する以下のような論もあるようだが、具体的な反論はあまり見られない。

小乗仏教と大乗仏教は同時に並行して伝えられて来たものである
大乗仏教においては、部派仏教の別(ただし同じ上座部系)の一派の教典が、大乗経典と一緒に継承されている
釈迦が大乗仏教なる邪説が起こるなどとは予言していない(ただし、上座部の教典には釈迦の死後五百年後にそのようなことが起こると予言されたとされている)
仏教以外のいわゆる外典とくらべて大乗の教義が優れている
実際に大乗を信奉して利益がある

大乗仏教は、伝統的に、ユーラシア大陸の

大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahāyāna Buddhism)は、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつ。自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする。

大乗(Mahā〈偉大な〉yāna〈乗り物〉)という語は、『般若経』で初めて見られ、一般に大乗仏教運動は『般若経』を編纂護持する教団が中心となって興起したものと考えられている。般若経典の内容から、声聞の教え、すなわち部派仏教の中でも当時勢力を誇った説一切有部を指して大乗仏教側から小乗仏教と呼んだと考えられているが、必ずしもはっきりしたことは分かっていない。なお思想的には、大乗の教えは釈迦死去の約700年後に龍樹(ナーガールジュナ)らによって理論付けされたとされる。
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一方、釈迦の教えを忠実に実行し、涅槃(輪廻からの解脱)に到ることを旨とした上座部仏教に対し、それが究極においてみずからはどこまでも釈迦の教えの信奉者というにととどまるもので、自身が「ブッダ」(如来)として真理を認識できる境地に到達できないのではないかという批判的見地から起こった仏教における一大思想運動という側面もある。釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づき、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という説を唱えた。この傾向は『般若経』には希薄だが、明確に打ち出した経典として『法華経』や『涅槃経』などがある。

自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行とは大乗以前の仏教界で行われていたものではない。紀元前後の仏教界は、釈迦の教えの研究に没頭するあまり民衆の望みに応えることができなくなっていたとされるが、出家者ではない俗世間の凡夫でもこの利他行を続けてさえいけば、誰でも未来の世において成仏できる(ブッダに成れる)と宣言したのが大乗仏教運動の特色である。声聞や縁覚は人間的な生活を否定して涅槃を得てはいるが、自身はブッダとして新しい教えを告げ衆生の悩みを救える、というわけではない。が、大乗の求道者は俗世間で生活しながらしかも最終的にはブッダに成れると主張し、自らを菩薩摩訶薩と呼んで、自らの新しい思想を伝える大乗経典を、しばしば芸術的表現を用いて創りだしていった。

2009年04月24日

チンドン屋

チンドン屋は、チンドン太鼓を鳴らして人目を集め、商品や店舗などの宣伝を行う日本の請負広告業である。
チンドン屋は、締太鼓と鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓などの演奏、および諸芸や奇抜な衣装・仮装によって街を廻りながら、依頼者の指定した地域・店舗へ人を呼び込み、また集客した上で宣伝の口上やビラ撒きなどで商品の購入を促す請負宣伝業。関東では「ひろめや(披露目屋・広目屋)」、関西では「東西屋」という呼称も用いられる。最近では、存在そのものが珍しくなったため、自治体主催の祭り会場に呼び出されることも多い。

シヤトン教育ランドサイト
ホテル・キャンプ場関連レジャー総合
ノエビアコスメチック倶楽部サーチ
介護サービス・老人ホーム関連ビジネスワールド情報
ヘルメスワインライフレシピナビ
生活習慣病・成人病関連家庭の医学・健康サーチ
フラミンゴ通販サーチ
せるびあ教育学びサイト
水族館・旅行関連リゾート総合
パークウェスト大人のコスメ情報

3人から5人ほどの編成が一般的で、チンドン太鼓、楽士、ゴロス(大太鼓)を中心に、旗持、ビラまきらが加わる。チンドン太鼓は、事業主である親方が担当することが多く、口上も兼任する。楽士は、クラリネット、サックスなどの管楽器で旋律を演奏する。特定の親方と雇用関係を結ばず、フリーで活動する楽士も多い。旗持は、幟を持ち、先頭を歩く役割で、関西では幟ではなくプラカードを持つことが多い。「ビラまき」は、チラシ、ティッシュなどを配布し、関西では「チラシ配り」と呼ばれる。各人が店名やサービス内容を書いた看板を背中に背負うことがあり、これを「背負いビラ」と呼ぶ。

店舗の近隣を巡る「街廻り」の仕事を基本とするが、大規模店舗や催し物の会場内を廻ることや、店の前やステージなどでの演奏を依頼されることもある。仕事の始めと終わりや、雨天時などに、留まって演奏することを「居付き」と言う。

積極的に宣伝行為をすること、派手な衣装で人目を引く行為・人物への比喩として「チンドン屋」が用いられることも多い。

2009年04月07日

レズマー

東欧系ユダヤ(イディッシュ)、アシュケナジムの民謡をルーツに持つ音楽ジャンルのひとつ。有名な曲に「ドナドナ」や映画『シンドラーのリスト』(スティーヴン・スピルバーグ監督)の音楽などがある。
語源 [編集]
イディッシュ語で「クレズメル」、英語「クレズマー」、ドイツ語では「クレッツマー」といったカタカナの読みに近い[1][2]。最近はクレズマーと呼ぶ人が増えてきているもののクレッツマーと呼ぶ人も少なくない。語源はヘブライ語の「道具」(クレ)と「歌」(ゼメル)の合成語「クレ・ゼメル」(ユダヤの歌の道具、すなわち楽器、転じてミュージシャンも指す)に由来するといわれている。

起源と継承 [編集]
起源はバルカン半島北部を含む東欧とドイツである。スピーディーで激しいダンス音楽から、ゆったりしたテンポのバラードまでさまざまなスタイルがある。おおむねクラリネットとヴァイオリンが加わっているのが特徴となっている(音階は参照)。

ルーツとなった東欧やバルカン半島北部では16世紀ごろに生まれ、19世紀ごろよりアップ・ビート(テンポの速い)音楽スタイルとして確立。ヨーロッパでは現在に到るまで、ロマの音楽(いわゆるジプシーの音楽)として存在し、はっきりと区分けすることは不可能なうえ、同様な演奏スタイルのグループやバンドはフランスやスペインにも、さらにはイスラエルにも存在する。

米国では、19世紀後半からの東欧系ユダヤ人の移民と、第二次世界大戦前後に東欧やドイツを逃れたユダヤ人らが、婚礼などの儀式を通して継承、1920年代にはユダヤ系米国人の間でポピュラーな音楽となった(第一次ブーム)。

この系統の作品として『屋根の上のバイオリン弾き』(Fiddler on the Roof, 1971年作品)が有名である。そして1970年代の末、米国で若いミュージシャンの間に、ユダヤ人としてのルーツを見直す動きが起こった(リバイバルによる第二次ブーム)。

現代のクレズマー [編集]
クレズマーバンドのクレズマティックス(The Klezmatics)が1986年にデビューしたのをきっかけとして再びリバイバルのブームが起こったのは1990年半ばごろの米国東部。ジャズやパンク・ロックに取り入れられたり、ドキュメンタリー映画『キングス・オブ・クレズマー』が発表されるなど、さまざまな動きが起こり、新しい音楽として再発見された。以後はニューヨーク、米国東部を中心とするニューウェイヴによって、前衛音楽やジャズなどにクレズマーは影響を及ぼした。ジョン・ゾーン(John Zorn)のユニット「マサダ」(Masada)はその代表格である。ニューヨークから発信されたクレズマーのスタイルは、いまやヨーロッパやイスラエルに元々存在していたクレズマーバンドに環流、さらにオランダ、フィンランドといった北欧、オーストラリア[3]など世界中に広がりつつある。

日本におけるクレズマー [編集]
日本ではこれらの動きに追随する形で、梅津和時[4]などの前衛ジャズミュージシャン、あるいは歌手の巻上公一[5]が盛んに取り入れ、また『屋根の上のバイオリン弾き』の大ヒットとロングランの実績による下地もあって、クレズマーのスタイルは日本にも広まり、新たな音楽を生みだすジャンルのひとつとなった。

関連映画 [編集]
ノーマン・ジュイソン監督『屋根の上のバイオリン弾き』[6]("Fiddler on the Roof"[7])、米国作品、1971年
シュテファン・シュヴィーテルト(Stefan Schwietert)監督『キングス・オブ・クレズマー』[8]("A Tickle in the Heart"[9])、ドイツ・スイス作品、1996年

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2009年03月23日

カルダン駆動方式

カルダン駆動方式(カルダンくどうほうしき cardan jointed drive)とは、電車における駆動方式の一種である。電気モーターをバネ上(通常は台車枠)に固定し、ここからユニバーサル・ジョイント(自在継ぎ手)の一種であるカルダンジョイントを介して、車軸を駆動する方式の総称。

カルダンジョイントはイタリアの数学者、ジェロラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano、1501-1576)により考案されたため、この名がある。Uジョイント、スパイサージョイント、フックスジョイントの別名もある。カルダンジョイントは入出力軸のなす角が180°の時以外は1回転する間の角速度が一定とならず、完全な等速ジョイント(Constant Velocity Universal Joint = CVJ)ではないが、鉄道車両の駆動システムは例えば自動車の前輪駆動機構などとは異なり、角度変化はさほど著しいものではなく、この程度の不等速であることは重大な問題とはならない。

広くばね上電動機架装方式を指して、カルダン式継手以外のWN継手や、軸変位の吸収に金属板のしなりを利用する撓み継手を用いたものも一般的にカルダン式と呼ばれるが、狭義ではこれらの継手はカルダンジョイントと区別されており、誤用とされる。

旧式な吊り掛け駆動方式に比しての長所・短所は以下の通り。

長所 [編集]
高速走行に適する。走行装置のバネ下重量が小さいため、高速走行時でも線路・車両への衝撃が小さい。騒音や乗り心地も改善される。
モーター自体への衝撃も小さいため、過度に頑丈な大型モーターを用いる必要がない。小型で高速回転が可能なモーターを使用できるため高効率。
メンテナンスの容易化。吊り掛け駆動方式に比して損耗部分が少なく、給脂箇所・給脂量共に少なく済み[1]、衝撃・動揺による消耗も少ない。カルダン駆動電車のメンテナンスサイクルは、吊り掛け駆動電車の3倍にも達する場合もある。

短所 [編集]
構造がやや複雑であり、製造コストも高い。
大出力モーターに用いる際には、カルダンジョイントの限界強度を考慮する必要がある。
共振による振動を避ける設計が必要。
継手や歯車の部品加工に高い精度が必要。

歴史 [編集]
1887年以降、電車の駆動方式は吊り掛け駆動が一般的であった。この方式は、当時においては実用上優れた方式であったが、モーターがバネ下重量となるためモーターに車輪からの激しい衝撃が加わることや、ギヤの歯面形状や遊間に起因する大きな駆動音など、いくつかの根元的問題を抱えていた。

この問題を解決するには、ばね上の台車側にモーターを固定し、何らかの方法で車軸に動力を伝達する方式への転換が必要である。吊り掛け駆動が登場する以前には、チェーンによる伝達も試みられていたが、これは信頼性の面からみれば問題外で、自動車産業の発展により自在継手による動力伝達が可能になった事で実用化を見た。

最初に登場したのは、べベルギヤと自在継ぎ手を組み合わせた直角カルダン駆動で、2軸単車の路面電車用として1910年代にはドイツで使用され、1920年代のパリの路面電車では主流となっていた。軸距が短いボギー台車用の開発は1920年代にアメリカ合衆国で行われ、ウォームギヤと自在継ぎ手との組み合わせに改良されたものが、路面電車車両での試用が行われた後、1930年代中期に本格的な製造がはじめられたPCCカーの駆動方式に採用された。
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アメリカでのばね上装架電動機用駆動装置の開発においては、並行してWNドライブの開発も進められた。直角カルダン駆動と同じく、路面電車で試用された後、1941年にシカゴ北海岸線のエレクトロ・ライナー型高速急行電車に採用され、第二次世界大戦後、ニューヨーク市地下鉄などでの本格的な採用が行われるようになった。

また同時期にスイスのブラウン・ボベリ(BBC)社がBBCディスクドライブとして中空軸平行カルダン駆動方式を開発している。

ヨーロッパではイタリアのETR200型特急電車に採用されたのが長距離高速電車に採用された最初の例であろう。

採用例 [編集]

日本 [編集]
1951年頃から、主要私鉄および重電メーカー・車両メーカーの協力によって、既存車両の駆動装置を改造する形で研究が進められた。

1952年には国鉄の電気式気動車キハ44000形で初めて直角カルダン駆動方式の45kWモーターが試験的に採用された。44000形の系統に属する電気式気動車は1953年までに30両が製造されており、一般の電車に先駆けての大量導入であったが、1958年頃までに液体式変速機への改造で廃されており、定着には至っていない。

私鉄電車では1953年の京阪電気鉄道1800系(中空軸平行カルダンおよびWNドライブ搭載)、東武鉄道5700系5720番台車(直角カルダン搭載)が新製車としての初期の例であるがいずれも半ば先行試作的なものであった。

大量に製造された最初の例は、アメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリック社などから最新技術を導入して1953年から製造された営団地下鉄(現・東京地下鉄)300形(WNドライブ搭載)である。路面電車では同じく1953年の東京都交通局5500形電車(直角カルダン搭載)が最初となった。また5500形と同年に大阪市交通局3000形もカルダン駆動を搭載して落成した。

日本に於けるカルダン駆動の元年となった1953年に同方式を本格採用した鉄道車両は上記の5社5形式のみの採用であったが、翌1954年以降に大手私鉄を中心に急速に一般化、一般電車への採用が遅れていた国鉄も1957年のモハ90系電車(のちの101系)でカルダン駆動方式に移行している。1960年代以降は、日本国内向けに新製されるほとんどの電車がカルダン駆動方式を用いるようになり、21世紀初頭の現在では吊り掛け駆動方式をほぼ駆逐している。

2009年03月08日

実務的メイソンリーの組織では「徒弟」「職人」の2階級

フリーメイソンリーの階級はこれだけである。ただし、実務的メイソンリーの組織では「徒弟」「職人」の2階級のみで、親方は職人の代表者という位置付けであり、階級ではなかった。また、徒弟のさらに下に、ロッジに加入していない下働きの石工も存在した。親方が階級として分化したのは18世紀に入ってから、思索的メイソンリーによるものである。1717年のグランド・ロッジの成立から、遅くとも1730年には導入され、次第に定着していった[17]。これは、他の職業のギルドが、早くから3階級に別れていた影響もあったといわれる。

実務的メイソンリーでは、徒弟から職人への進級は最低7年を必要とし、さらに技能試験に合格する必要があった[18]。しかし、現在の思索的メイソンリーでは、石工の実務を修行するわけではないため、親方への進級は3-4か月で可能である[19]。
こどまり バーベキュー スターライト ハンバ むぎわら ヘデラ スクエア レポレート タチアオイ かささ あとがま レムリア 紙飛行 モノカイ サフル サウジ ラノオ ダクション かしはら デコラ フルス レべリング クンツ フェライト かぶとが ピンチ ナビユタ わらび野 コロポ リパー ライセ あねご トーテム 世界一周 しゃな ロコモー シュー ファーム てごろ ンソウ ドライ リード オミット ドルチェ イズム セッティ スイート ハジサー つきほと 桃一郎

一般的にフリーメイソンリーの上位階級として知られているのは、関連組織のスコティッシュ・ライト(スコッチ儀礼)、ヨーク・ライト(ヨーク儀礼)が用意した階級[20]である。スコティッシュ・ライトは30階級、ヨーク・ライトは9階級の上位階級を用意している。かつてのオリエンタル・ライト・メンフィス(メンフィス東方儀礼)では、94もの上位階級を設けていた(後に30階級に削減)。
1737年3月21日、フランス・パリで、騎士のアンドリュー・M・ラムゼイがフリーメイソンリーの目標は世界を一大共和国となすことで、起源は石工組合ではなく十字軍であると主張した演説を行った。上位階級が記録されているのはこれ以降のことであり、ラムゼイの演説をきっかけに創設された可能性が高い。また、ラムゼイは暗にテンプル騎士団とのかかわりもほのめかしたという。なお、陰謀論でフリーメイソンリーが「ワン・ワールド」を目指す組織とされることがあるのは、ラムゼイのこの発言が原因と思われる。「ワン・ワールド」思想についてはフリーメイソンリー側も否定していないが、組織的に特定政府の転覆を図ることはないとしている[3]。
この結果、一時は数百の階級が乱立し、また基本階級のロッジに対する優位権を主張して対立するなど、混乱を引き起こした。さらに上位階級はパテントとして階級授与者が独自の判断で第三者に階級を授与する権利を与える方式だったので、基本階級を経ず、ロッジに足を踏み入れたことのない上位階級者さえ現れた。

現在では、上位階級の組織はフリーメイソンリーの上位団体ではなく、関連組織として位置付けられている。そして、上位階級の授与資格者を、親方階級を得た者に限っている。しかし、オカルト色の強い階級が多数あることも影響して、陰謀論ではしばしば闇の組織として取りざたされる。また、ロッジによっては、上位階級を用意していても、内容を秘密にしているところもあるという。上位階級の昇級の詳細については非公開だが、暴露本によって公開された内容は(少なくとも一部は)事実であることを認めている[3]。たとえば、ある階級の儀式には、バチカンの教皇の帽子とヨーロッパの王様の王冠を模した帽子を踏みつぶすというのがあり、教皇権や王権との対立の歴史を物語っている(前掲『陰謀がいっぱい!』では、メイソン側は独裁者に反対し、言論・思想の自由を奪うことに反対する意思表示であって、王権そのものの否定ではないと説明している)。

特殊な例として、スウェーデン儀礼の上位階級(9階級)がある。スウェーデンでは、最上位階級はスウェーデン国王専用(スウェーデン・グランド・ロッジは、国王が代々グランド・マスターに就任している[21])となっており、国権とフリーメイソンリーが一体化している。しかし、「正規派」ロッジとは相互承認関係にある。

基本の3階級は、「ブルー・ロッジ(青ロッジ)」と呼ばれる。単に「ロッジ」と呼ぶ場合は、この「ブルー・ロッジ」で構成された集会所を指すことが多い。これに対し、上位階級はさらにいくつかに分けられるが、総称して「レッド・ロッジ(赤ロッジ)」と呼ぶ(狭義には、赤をシンボルカラーに持つ「ロイヤル・アーチ」階級を含んだロッジを意味する)。

片桐三郎(32階級)によれば、33階級(最高大総監)は功労者に与えられる名誉階級であるという[3]。

基本階級は必ず正規の参入儀礼を必要とするが、上位階級は4、9、12-14、18、22、28-33階級は正規の参入儀礼で、それ以外は「通達」により昇級が行われるという[22]。

33階級の上にさらに3階級を付け加えられているとする説もある[23]。

フリーメイソンであるとされる著名人のリストである(国籍別、生年順)。なお、このリストはあくまで参考文献にフリーメイソンであると記されていることを示すに留まり、各々の人物が本当にフリーメイソンであると断言するものではない。

フリーメイソンであるとされる人物にも、結社に所属していたという直接の証拠が残っている者(例:モーツァルト)もいれば、資料によってはフリーメイソンであったとされる者(例:ヴェルディ)もいる[25]。中にはジョージ・ワシントンのようにフリーメイソンの礼装姿の肖像画や写真が残っている者も存在する。

また、フリーメイソンであったか否か、文献間で争いがある者もいる。たとえばワーグナーは、ある本では1841年に加入したことになっているが[26]、別の本ではそのことには触れられておらず、代わりに、1872年に入団申し込みをしたが断られたエピソードが挙げられている

2009年02月19日

モビルスーツ (MOBILE SUIT: MS(エムエス))

モビルスーツ (MOBILE SUIT: MS(エムエス)) は、アニメ『機動戦士ガンダム』をはじめとする「ガンダムシリーズ」に登場する、架空の兵器の分類の一つ。一種のロボットで、ほとんどの場合人型をした有人機動兵器の事を指す。
ビレッジ ジュレーター ララバイ 幸せの鳥 モノライン ギンヌン オプシン レンズ じゅん ナッパ トマト データ リデュース ピンサロ ブッフェ ニング エンド ちゃうす デンド ドライブ クロマ レトロ シロホン タンタン オーダ キットキ メソポ オフデ スイス デシベル ノニ チョコ ムルデ ジャバ オパール ソワニ カノン カキラン ニズム ロード フィード シュルント ミードテ リニアック たてあな ランナ バギナ パイント ドスキン ヨーデル

劇中の大道具・小道具としてのモビルスーツ
1979年制作の『機動戦士ガンダム』において初登場したモビルスーツは、1972年制作の『マジンガーZ』以来のロボットアニメに登場するロボット達とは大きく異なる特徴を持っている。従来のロボットアニメに登場するロボットは、特撮番組などにおけるヒーローと怪獣、例えば『ウルトラマン』におけるウルトラマンとウルトラ怪獣の役割を、主役ロボットと敵役ロボットとに置き換えたものである。これに対して、モビルスーツは戦闘機や戦車と同じような兵器の一種として扱われている。すなわち、戦場を舞台としたドラマにおける大道具あるいは小道具として存在しているのである。

『機動戦士ガンダム』はそれまでのロボットアニメに、例えば『宇宙戦艦ヤマト』で見られたような戦場を舞台とした人間ドラマの要素を取り込んだ初の作品であるとされている。モビルスーツの華々しい活躍は物語において確かに重要ではあるが、それ以上に戦場で相対する人々の人間模様や、特に成長途上の少年少女達が多く登場した『機動戦士ガンダム』にあっては彼らの成長が重要な要素として描かれている。また『機動戦士ガンダム』では重要なテーマとして「人類の革新『ニュータイプ』」という存在が物語後半でクローズアップされ、その意味や意義を描く小道具としてもモビルスーツは重要な存在である。

例えば、『機動戦士ガンダム』で最も数多く登場したモビルスーツ・ザクがそれまでのロボットアニメの敵巨大ロボと根本的に異なる点は、「同型機が何度も、かつ同時に複数登場する」という点である(巨大ではないが『新造人間キャシャーン』のロボット軍団のように、量産型の登場例は既にあった。)。それまでの敵ロボットは毎回毎回外見も行動も異なるものが一機ずつ登場していたのに対し、『機動戦士ガンダム』第1話から第11話までの間、敵側のモビルスーツはいわゆるザク、旧ザク、そしてシャア専用ザクだけで通してしまったのである。そしてザクは同じ機体が同時に複数登場するのが常である。またザクの武装はマシンガン・バズーカといった実在の歩兵用火器をモビルスーツの大きさにしたものであり、怪獣のような火炎や怪光線で攻撃してきた従来の敵ロボットとはこの点でも一線を画していた。外観も商品化が予定されていなかった事もあって、大戦中のドイツ軍兵士をイメージさせる兵器らしさを強調したデザイン、戦車などの軍用車両を思わせる緑系のカラーリングとなっており、特に高年齢層には主役のガンダム以上の人気を博す事になる。敵ロボットのみならずロボットアニメのロボットの概念を根本的に変えてしまったザクを、ロボットアニメ史に残る傑作機とまで呼ぶファンもいるほどである。こうした「ロボットをあくまで兵器として扱う」というコンセプトはその後のリアル系ロボットアニメの主流となり、主役メカが存在せず敵味方が同じ工業製品の量産機で戦うという内容の『装甲騎兵ボトムズ』でピークに達する。

主人公アムロ・レイが搭乗する主役機ガンダムも、ザクと比べて強いことは強いが桁外れな強さを誇ったわけではない。ビームライフルなどザクにはない強力な武装というアドバンテージこそあったが、グフやドムなどといった敵側の新型モビルスーツの登場によってその差は縮められ、それらに搭乗する凄腕のパイロットの前にはしばしば苦戦を強いられている。アムロがそれらに打ち勝つのも彼自身の人間的成長によってであったり、あるいはニュータイプとして超人的感覚を覚醒させることによってであった。

『機動戦士ガンダム』の企画時に、本来は登場させるつもりはなかったロボットをスポンサーの意向により登場させざるを得なくなった際、スタジオぬえの高千穂遙が、ロバート・A・ハインラインのSF小説『宇宙の戦士』の一読を企画部長の山浦栄二に薦めた。総監督の富野喜幸(現・富野由悠季)をはじめとした制作スタッフは、当初は「パワードスーツ」のアイディアを元に全高2m程度の強化装甲服を使うつもりであったが(「モビルスーツ」という名称はその名残である)、スポンサーから巨大ロボットではなくてはだめだと要求されたため、戦闘機と同サイズである18mのロボット、つまりマジンガーZと同じ大きさとなった。当然、兵器論としてはこの様に巨大なものは役には立たないことは分かっていたが、当時のアニメロボットの主流は50m?100m程度であったため、これでも十分にリアルな描写ができると判断されたのである。モビルスーツという兵器の概念は、こうして生み出された。なお「モビルスーツ」以降、ロボットアニメでは登場する巨大ロボット兵器を単に「ロボット」と呼ばず、「重機動メカ」「ウォーカーマシン」「オーラバトラー」など、各作品が世界観に沿った固有の総称を設定する事が慣例となっている。

本来は、物語の最後まで敵側のモビルスーツはザクのみで通す予定であった。しかし視聴率低下によるてこ入れから複数のモビルスーツを登場させざるを得なくなり、さらにはモビルアーマーの登場にまで至った。新モビルスーツの登場は、当初こそ世界観を破壊してしまうのではないかと懸念されたものの、新型兵器が開発されることは全くおかしなことではないとの結論に至り、後には全機種がプラモデル化されるなど、結果としてはキャラクタービジネスの成功へとつながるのである。

キャラクターとしてのモビルスーツ
モビルスーツはキャラクターの一種としても非常に成功した部類である。『機動戦士ガンダム』の本放送は、そのリアリティを重視した物語が従来のロボットアニメとあまりに異質であったこともあって当初は視聴率が今ひとつ振るわず、またメインスポンサーであったクローバーが発売していた玩具の売り上げが不振であったために終盤近くで打ち切りとなってしまった。その後1980年にバンダイからガンダムをはじめとしたモビルスーツのプラモデルが発売され、価格の手ごろさなどから当時の子供達に絶大な人気を博した。やがて「ガンプラ」と呼ばれるようになったこれらのプラモデルの人気と、ドラマ性を重視した物語の評価とが相まって『機動戦士ガンダム』の再放送の視聴率は非常に高いものとなり、そして劇場版映画として再編・上映され大ヒットとなった。ガンプラは子供向けの簡便な低価格キットから高年齢層向けに凝った作りの高価格キットまで幅広く展開されている。四半世紀を経た現在でも続編作品の登場機体に加え、いまだに初代ガンダムやザクの新型キットが発売されるなどその人気は全く衰えていない。

ガンプラ以外にもフィギュアなどが発売され、またモビルスーツが登場するコンピューターゲームも、その操縦を楽しむアクションゲームやこれによる戦略を楽しむシミュレーションゲーム等多数が制作されている。子供向けやファン向け以外でも、一般の大人向けの商品のキャラクターとしてもモビルスーツは人気がある。

またモビルスーツを2?3頭身程度にデフォルメした『SDガンダム』シリーズも高い人気を持つ。これらは本来のモビルスーツをコミカルに表現したもので、体型以外の設定はそのままにコンピュータゲームに登場したり、あるいは本来のガンダムシリーズを離れて全く新しいキャラクター・世界観を構築したものもある。

モビルスーツのデザイナー
『機動戦士ガンダム』においてモビルスーツをデザインしたのはメカデザイナーの草分けである大河原邦男である。実際の現場では監督の富野由悠季やキャラクターデザイナーで作画監督の安彦良和によってもデザインの提案や修正がおこなわれている(初期デザインのガンダムにはライディーンのように鼻と口があったのだが、安彦良和が異議を唱え、現在のようにマスクを付けているかのようなデザインとなった。また、青をベースとしたカラーリングだったのを、白をベースとするよう提案したのも安彦良和である)。さらに、番組中期以降の登場メカの大半は富野によってラフデザインがおこされ、それに比較的忠実な大河原邦男によるフィニッシュワークが行われているため、基本デザインは富野によるものと言っても過言ではない(『伝説巨神イデオン』でも同様のことが行われた)。ガンダムブーム・ガンプラブームによって「メカニックデザイナー(メカニカルデザイナー)」という職種が注目されるようになった。大河原はタツノコプロ時代に『ゴワッパー5 ゴーダム』『タイムボカンシリーズ』などのメカデザインを担当しており、モビルスーツのデザインとの共通点も見られ興味深い。

以降のガンダムシリーズにおいても、永野護や出渕裕、カトキハジメなどといった多くのメカデザイナーが参加している。『ブレードランナー』等で知られるアメリカのインダストリアルデザイナーのシド・ミードも『∀ガンダム』に参加したことがある。漫画家の鳥山明も自作品内でオリジナルのモビルスーツをデザインし登場させた。

モビルスーツの設定付け
『機動戦士ガンダム』がアニメファンの人気を獲得する中で、その世界観に関する考察や様々な後付け設定の創作が行われている。例えば製作スタッフとラポート社発行のアニメ雑誌「アニメック」編集部との交流により、モビルスーツには実在の兵器に似せた型式番号が割り当てられるようになった。例えばガンダムには「RX-78」、ザクには「MS-06」といった具合である。モビルスーツの型式番号や名称は、スタジオぬえが係わった、みのり書房発行の雑誌「月刊OUT」別冊『GUNDAM CENTURY』により、「RX-78-2 ガンダム(2号機)」「MS-06F ザクII F型」と、また旧ザクやシャア専用ザクも「MS-05 ザクI」「MS-06S 指揮官用ザクII」とより詳細に設定された。さらに最初の劇場版公開当時、講談社のムックで劇中には登場しなかったバリエーション機が創作され、これは後にGUNDAM CENTURYで生まれた設定を加えて拡大し、バンダイの『モビルスーツバリエーション』 (MSV) として商品展開、ガンプラなどで人気を博した。これらはアニメの制作スタッフによるものではなかったが、ずっと後に作られた作品の劇中に登場することで、公式的な設定となっていった。

また、当初モビルスーツによる白兵戦を必然のものとするために、レーダー等を使用不能にする粒子として創作されたミノフスキー粒子についても、『GUNDAM CENTURY』などにより設定が拡大し、劇中の様々な兵器などの設定付けがおこなわれた。例えばビームライフルなどを実現するメガ粒子、いわゆるバリアを実現するためのIフィールドジェネレーター、空中に大型の機器を浮かべるためのミノフスキークラフトなどである。これらは後にミノフスキー物理学という架空の科学体系としてまとめられている。モビルスーツが人型をしている理由についても、手足を動かす際の反作用で機体の向きを制御するAMBACという概念が創作されている。

こういった詳細な設定はそれ自体でファンを楽しませるものとなると同時に、後に作られたロボットアニメにも詳細な設定付け、特に「人型有人兵器の名称とその存在理由」を考証する必要性を生み出した。

この点については、監督である富野自身が、かつては「大型の人型汎用ロボットは、その人型ゆえに人間と同等の汎用性と実用性がある」という素朴な解釈を披露することが多かったが、最近のガンダムエース誌での対談においては「背景は人間の戦闘である、という事を表す記号として、あえて人型にこだわっているだけ」という主旨の発言が多い。かつて作中の人物にも「あんなの(足)飾りです」と言わせていた。

後の作品などへの影響
『機動戦士ガンダム』におけるモビルスーツの描写は、『超時空要塞マクロス』、『装甲騎兵ボトムズ』、『銀河漂流バイファム』、『ファイブスター物語』、『新世紀エヴァンゲリオン』など、後進のロボットアニメに多大な影響を与えている。これらの作品では、『機動戦士ガンダム』同様にあくまでロボットをドラマの大道具の一種として描いている。後に古今のロボットアニメのロボット達が一堂に会するシミュレーションゲーム『スーパーロボット大戦シリーズ』において、これらのロボットに対して「リアルロボット」という分類名が与えられた。一方で『マジンガーZ』以来のロボットをヒーローと同等の存在として描くものを「スーパーロボット」と称し、リアルロボットとスーパーロボットはお互いに影響を与えつつ今日に至っている。

『鉄腕アトム』が等身大の人間と共に活動するロボットに対するあこがれを、『鉄人28号』が大型ロボットに対するあこがれをかき立て共に日本のロボット技術者にとって究極の目標となったように、モビルスーツも『マジンガーZ』と共に有人型ロボットへのあこがれをかき立て、ロボット開発の目標のひとつとなった。2005年に「LAND WALKER」という有人型二足歩行ロボットが公開された際には、アニメファンの間で「遂にモビルスーツ出現か」とまで騒がれるほどであった。このように「モビルスーツ」という言葉は、『機動戦士ガンダム』の知名度の高さもあり、人が乗って操縦桿で操縦する人型ロボット全体を示す代名詞にすらなっている。

2009年02月03日

忌部氏(いんべし・いみべし)

忌部氏(いんべし・いみべし)とは、大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団である。

ケガレを忌み、神事などに奉仕する。古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とする。その子孫は後に斎部を名乗る。中臣氏と勢力を争ったが、あまり振るわず、次第に衰退していった。「諱部」、「鋳部」、「伊部」とも表記する例もある。
マクロ ロード ナビビラ 地中海 フロー ワダン リグベーダ 探険隊 クロス テレキ シルエット メイン キュリーズ ファイト フロー ターキ 草競馬 ブロイ オフテン タオル ダイアリー ビルト ビヤマグ ビードロ ローシップ ウーマンパワー グルタチ ダクター ルテオリン マイムエ はだし ポルテ 百日紅 サイダー ミニカ プリンセス がんばる パーセント あばしり ショート スパル ましけ アジェンダ 氷河便利 シーベル フェイク アフタ フルーテ ドリンク トレンチ

氏族は多数に及び、各地に広がっている。九州・紀伊半島・四国・房総半島などに勢力をもった。 天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波国の阿波忌部氏、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする讃岐国の讃岐忌部氏、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖とする紀伊忌部氏、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖とする出雲国の玉作氏(たまつくりし)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖とする筑紫国・伊勢国の忌部氏などがいた。 また、四国の阿波と房総半島の安房が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。北陸(越前国)、山陰(出雲国、隠岐国)、山陽(備前国)などにも忌部氏はいる。

竹取物語流布本にかぐや姫の名付け親を「みむろとのいんべのあきた」(三室戸斎部秋田)とあり、また竹取の翁の名を「さぬきのみやつこ」とあるのを、この氏族と結びつけ、作者を忌部氏の人とする説や、讃岐忌部と作者の関係を指摘する説がある。

織田氏は劔神社の神官である越前忌部(斎部)氏の支流(あるいは越前藤原氏とも)であるが、後に桓武平氏の系統と仮冒した。長徳4年(998年)3月21日、藤原行成の「権記」に越前劒大神宮神主 伊部守忠という名前が見える。

四国の阿波、房総の安房に限らず、地名に関する事も多く、伊部(いんべ)、井辺(いんべ)、員弁(いなべ)など三重県や奈良県にも同氏から付けられた地名を残している。

姓ははじめ首(おびと)だったが、天武天皇9年(680年)1月8日に、連(むらじ)の姓を与えられた。天武天皇13年(684年)12月2日に他の連姓の50氏とともに宿禰(すくね)になった。

『日本逸史』によると、延暦22年(803年)3月に「忌部」から「斎部」に改めた。正六位上斎部宿祢浜成の願出によるという。浜成の伝記は伝わってないが、『古語拾遺』の選者斎部広成と同一人物という説もある。

子孫
忌部黒麻呂 - 万葉歌人
斎部広成 - 古語拾遺を作成
麻植持光
織田信長 - 諸説あり
後藤田正純
後藤田正晴

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、南海道に位置する。現在の徳島県にあたる。阿州(あしゅう)と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。

古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国(あわのくに)、南の地域は長国(ながのくに)と呼ばれていたが、大化の改新の後に粟国に統一された。和銅6年(713年)、元明天皇の命により地名を二字で表記するため粟は阿波に変更された。

中世、鎌倉時代においては鎌倉幕府により佐々木氏、小笠原氏が守護に任ぜられた。室町時代には三管領家の一つである細川氏の支配するところとなるが、戦国時代の到来により小笠原氏の庶流である三好氏がこれに代わることになった。三好氏は京都にも進出し、一時は中央の政治にも関与、征夷大将軍さえも傀儡とするなど、権勢を誇ることとなる。

その後、織田信長が三好義継を滅ぼすと、三好一族である三好長治が阿波を統治することとなる。しかし、長治は阿波全土の国人や領民に対して法華宗を強要し、支持を失ってしまう。これを良い機会と見た土佐国の長宗我部氏の侵攻にあい、1584年、阿波は長宗我部元親の支配下となる。長宗我部元親は進撃を続け、1585年には讃岐、伊予も手中にし、四国統一を成し遂げる。

しかし、その直後(一説には、伊予の河野氏を制圧して四国をほぼ平定してから僅か3?5週間後と言われる)に豊臣秀吉が四国征伐を行う。1585年6月、羽柴秀長を総大将とする10万の軍勢が四国へ送られ、そのうち羽柴秀長、羽柴秀次らの兵は阿波から上陸し、さらに宇喜多秀家は讃岐へ、小早川隆景は伊予へと多方面から四国に攻め込んだ。

元親は2万から4万と言われる軍をもって阿波の白地城を本拠地に対抗したが、準備も出来ておらず、また兵力の差も覆せず、羽柴軍上陸の2ヶ月後には降伏せざるを得なかった。元親は土佐一国を安堵されたが、土佐以外の三カ国は没収された。

その後、蜂須賀氏の蜂須賀家政が阿波に封ぜられる。蜂須賀氏は、改易されることなく、江戸時代を通じて阿波国徳島藩および富田藩(徳島藩支藩)の藩主として阿波を治めた。

明治に至り、1871年(明治4年)廃藩置県が実施されると阿波は名東県となる。名東県は淡路国(淡路島)も範囲としており、さらに1873年2月20日には香川県も編入した。しかし、第二次府県統合により、1875年9月5日に旧讃岐国部分が香川県として分立再置県され、1876年8月21日に淡路国部分が兵庫県に編入され、阿波国部分は高知県に編入された。

しかし、結局1880年3月2日に、旧名東県が高知県から分離されて、現在の徳島県が発足。四国の各国は、ほぼ旧国の形のまま、県へと移行した。

国府・一宮など
国府は名方郡にあり、現在の徳島市国府町と推定されるが、未だ遺跡は見つかっていない。

延喜式神名帳には大社3座3社・小社47座の計50座が記載されている。大社は以下の3社で、全て名神大社である。

板野郡 大麻比古神社(鳴門市)
麻殖郡 忌部神社(論社複数。明治時代に徳島市に遷座)
名方郡 天石門別八倉比売神社(論社複数)
阿波国一宮を称する神社は複数ある。現在「阿波国一宮」と言った場合は大麻比古神社とすることが多いが、大麻比古神社が一宮とされるようになったのは中世以降のことである。古くから一宮とされていたのは上一宮大粟神社(名西郡神山町)であった。平安時代後期に、一宮大粟神社から国府の近くに分祀して一宮神社(徳島市一宮町)が創建された。上一宮大粟神社および一宮神社は式内名神大社の天石門別八倉比売神社の論社であるが、八倉比売神社(徳島市)も天石門別八倉比売神社の論社であり、こちらも一宮とされる。また、忌部神社は阿波国最高の社格を有していたこともあり、「四国一宮」を称している。

総社は国府八幡大明神宮(徳島県徳島市国府町観音寺)とされるが、明証がない。

守護
鎌倉幕府
??1200年 - 佐々木経高
1205年?? - 佐々木経高
??1221年 - 佐々木高重
1221年?? - 小笠原長清
1223年?? - 小笠原長経
??1333年 - 小笠原氏

室町幕府
1339年?1340年 - 細川和氏
1341年?1352年 - 細川頼春
1352年?1372年 - 細川頼之
1373年?1379年 - 細川頼有
1379年?? - 細川政氏
1381年?1392年 - 細川頼之
1392年?1402年 - 細川義之
1411年?1430年 - 細川満久
1430年?1449年 - 細川持常
1449年?1478年 - 細川成之
1479年?1488年 - 細川政之
1488年?1494年 - 細川義春
1494年?1512年 - 細川之持
1512年?1553年 - 細川持隆
1553年?? - 細川真之

国司
阿波守
細川和氏
三好長治
蜂須賀至鎮 - 阿波徳島藩初代藩主。
蜂須賀忠英 - 阿波徳島藩第2代藩主。
蜂須賀光隆 - 阿波徳島藩第3代藩主。
蜂須賀綱通 - 阿波徳島藩第4代藩主。
蜂須賀宗英 - 阿波徳島藩第7代藩主。
蜂須賀宗鎮 - 阿波徳島藩第8代藩主。
蜂須賀重喜 - 阿波徳島藩第10代藩主。
蜂須賀治昭 - 阿波徳島藩第11代藩主。
蜂須賀斉昌 - 阿波徳島藩第12代藩主。
蜂須賀斉裕 - 阿波徳島藩第13代藩主。
蜂須賀茂韶 - 阿波徳島藩第14代藩主。第11代東京府知事。第2代貴族院議長。

阿波介
山田古嗣 - 846年(承和13年)任官。

[編集] 郡
板野郡
松島、津屋(つのや)、高野、小島、井隈(ゐのくま)、田上、山下(やまのした)、金戸、新屋
阿波郡
高井、秋月、香美、拝師
美馬郡
發原(はつはら)、三吹(みすゐ)、大島、大村
三好郡
三縄、三津、三野
麻殖郡
呉島、忌部、川島、射立
名西郡(名方西)
埴土、高足(たかし)、土師(はし)、櫻間
名東郡(名方東)
名方(なかた)、新井(にひゐ)、賀茂、井上(ゐのへ)、八萬(はちま)、殖栗(ゑくり)
勝浦郡
篠原、託羅(たから)、新居(にひのゐ)、餘戸
那賀郡
山代、大野、島根、坂野、幡羅(はら)、和泉、和射
海部郡