忌部氏(いんべし・いみべし)とは、大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団である。
ケガレを忌み、神事などに奉仕する。古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とする。その子孫は後に斎部を名乗る。中臣氏と勢力を争ったが、あまり振るわず、次第に衰退していった。「諱部」、「鋳部」、「伊部」とも表記する例もある。
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氏族は多数に及び、各地に広がっている。九州・紀伊半島・四国・房総半島などに勢力をもった。 天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波国の阿波忌部氏、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする讃岐国の讃岐忌部氏、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖とする紀伊忌部氏、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖とする出雲国の玉作氏(たまつくりし)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖とする筑紫国・伊勢国の忌部氏などがいた。 また、四国の阿波と房総半島の安房が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。北陸(越前国)、山陰(出雲国、隠岐国)、山陽(備前国)などにも忌部氏はいる。
竹取物語流布本にかぐや姫の名付け親を「みむろとのいんべのあきた」(三室戸斎部秋田)とあり、また竹取の翁の名を「さぬきのみやつこ」とあるのを、この氏族と結びつけ、作者を忌部氏の人とする説や、讃岐忌部と作者の関係を指摘する説がある。
織田氏は劔神社の神官である越前忌部(斎部)氏の支流(あるいは越前藤原氏とも)であるが、後に桓武平氏の系統と仮冒した。長徳4年(998年)3月21日、藤原行成の「権記」に越前劒大神宮神主 伊部守忠という名前が見える。
四国の阿波、房総の安房に限らず、地名に関する事も多く、伊部(いんべ)、井辺(いんべ)、員弁(いなべ)など三重県や奈良県にも同氏から付けられた地名を残している。
姓ははじめ首(おびと)だったが、天武天皇9年(680年)1月8日に、連(むらじ)の姓を与えられた。天武天皇13年(684年)12月2日に他の連姓の50氏とともに宿禰(すくね)になった。
『日本逸史』によると、延暦22年(803年)3月に「忌部」から「斎部」に改めた。正六位上斎部宿祢浜成の願出によるという。浜成の伝記は伝わってないが、『古語拾遺』の選者斎部広成と同一人物という説もある。
子孫
忌部黒麻呂 - 万葉歌人
斎部広成 - 古語拾遺を作成
麻植持光
織田信長 - 諸説あり
後藤田正純
後藤田正晴
阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、南海道に位置する。現在の徳島県にあたる。阿州(あしゅう)と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国(あわのくに)、南の地域は長国(ながのくに)と呼ばれていたが、大化の改新の後に粟国に統一された。和銅6年(713年)、元明天皇の命により地名を二字で表記するため粟は阿波に変更された。
中世、鎌倉時代においては鎌倉幕府により佐々木氏、小笠原氏が守護に任ぜられた。室町時代には三管領家の一つである細川氏の支配するところとなるが、戦国時代の到来により小笠原氏の庶流である三好氏がこれに代わることになった。三好氏は京都にも進出し、一時は中央の政治にも関与、征夷大将軍さえも傀儡とするなど、権勢を誇ることとなる。
その後、織田信長が三好義継を滅ぼすと、三好一族である三好長治が阿波を統治することとなる。しかし、長治は阿波全土の国人や領民に対して法華宗を強要し、支持を失ってしまう。これを良い機会と見た土佐国の長宗我部氏の侵攻にあい、1584年、阿波は長宗我部元親の支配下となる。長宗我部元親は進撃を続け、1585年には讃岐、伊予も手中にし、四国統一を成し遂げる。
しかし、その直後(一説には、伊予の河野氏を制圧して四国をほぼ平定してから僅か3?5週間後と言われる)に豊臣秀吉が四国征伐を行う。1585年6月、羽柴秀長を総大将とする10万の軍勢が四国へ送られ、そのうち羽柴秀長、羽柴秀次らの兵は阿波から上陸し、さらに宇喜多秀家は讃岐へ、小早川隆景は伊予へと多方面から四国に攻め込んだ。
元親は2万から4万と言われる軍をもって阿波の白地城を本拠地に対抗したが、準備も出来ておらず、また兵力の差も覆せず、羽柴軍上陸の2ヶ月後には降伏せざるを得なかった。元親は土佐一国を安堵されたが、土佐以外の三カ国は没収された。
その後、蜂須賀氏の蜂須賀家政が阿波に封ぜられる。蜂須賀氏は、改易されることなく、江戸時代を通じて阿波国徳島藩および富田藩(徳島藩支藩)の藩主として阿波を治めた。
明治に至り、1871年(明治4年)廃藩置県が実施されると阿波は名東県となる。名東県は淡路国(淡路島)も範囲としており、さらに1873年2月20日には香川県も編入した。しかし、第二次府県統合により、1875年9月5日に旧讃岐国部分が香川県として分立再置県され、1876年8月21日に淡路国部分が兵庫県に編入され、阿波国部分は高知県に編入された。
しかし、結局1880年3月2日に、旧名東県が高知県から分離されて、現在の徳島県が発足。四国の各国は、ほぼ旧国の形のまま、県へと移行した。
国府・一宮など
国府は名方郡にあり、現在の徳島市国府町と推定されるが、未だ遺跡は見つかっていない。
延喜式神名帳には大社3座3社・小社47座の計50座が記載されている。大社は以下の3社で、全て名神大社である。
板野郡 大麻比古神社(鳴門市)
麻殖郡 忌部神社(論社複数。明治時代に徳島市に遷座)
名方郡 天石門別八倉比売神社(論社複数)
阿波国一宮を称する神社は複数ある。現在「阿波国一宮」と言った場合は大麻比古神社とすることが多いが、大麻比古神社が一宮とされるようになったのは中世以降のことである。古くから一宮とされていたのは上一宮大粟神社(名西郡神山町)であった。平安時代後期に、一宮大粟神社から国府の近くに分祀して一宮神社(徳島市一宮町)が創建された。上一宮大粟神社および一宮神社は式内名神大社の天石門別八倉比売神社の論社であるが、八倉比売神社(徳島市)も天石門別八倉比売神社の論社であり、こちらも一宮とされる。また、忌部神社は阿波国最高の社格を有していたこともあり、「四国一宮」を称している。
総社は国府八幡大明神宮(徳島県徳島市国府町観音寺)とされるが、明証がない。
守護
鎌倉幕府
??1200年 - 佐々木経高
1205年?? - 佐々木経高
??1221年 - 佐々木高重
1221年?? - 小笠原長清
1223年?? - 小笠原長経
??1333年 - 小笠原氏
室町幕府
1339年?1340年 - 細川和氏
1341年?1352年 - 細川頼春
1352年?1372年 - 細川頼之
1373年?1379年 - 細川頼有
1379年?? - 細川政氏
1381年?1392年 - 細川頼之
1392年?1402年 - 細川義之
1411年?1430年 - 細川満久
1430年?1449年 - 細川持常
1449年?1478年 - 細川成之
1479年?1488年 - 細川政之
1488年?1494年 - 細川義春
1494年?1512年 - 細川之持
1512年?1553年 - 細川持隆
1553年?? - 細川真之
国司
阿波守
細川和氏
三好長治
蜂須賀至鎮 - 阿波徳島藩初代藩主。
蜂須賀忠英 - 阿波徳島藩第2代藩主。
蜂須賀光隆 - 阿波徳島藩第3代藩主。
蜂須賀綱通 - 阿波徳島藩第4代藩主。
蜂須賀宗英 - 阿波徳島藩第7代藩主。
蜂須賀宗鎮 - 阿波徳島藩第8代藩主。
蜂須賀重喜 - 阿波徳島藩第10代藩主。
蜂須賀治昭 - 阿波徳島藩第11代藩主。
蜂須賀斉昌 - 阿波徳島藩第12代藩主。
蜂須賀斉裕 - 阿波徳島藩第13代藩主。
蜂須賀茂韶 - 阿波徳島藩第14代藩主。第11代東京府知事。第2代貴族院議長。
阿波介
山田古嗣 - 846年(承和13年)任官。
[編集] 郡
板野郡
松島、津屋(つのや)、高野、小島、井隈(ゐのくま)、田上、山下(やまのした)、金戸、新屋
阿波郡
高井、秋月、香美、拝師
美馬郡
發原(はつはら)、三吹(みすゐ)、大島、大村
三好郡
三縄、三津、三野
麻殖郡
呉島、忌部、川島、射立
名西郡(名方西)
埴土、高足(たかし)、土師(はし)、櫻間
名東郡(名方東)
名方(なかた)、新井(にひゐ)、賀茂、井上(ゐのへ)、八萬(はちま)、殖栗(ゑくり)
勝浦郡
篠原、託羅(たから)、新居(にひのゐ)、餘戸
那賀郡
山代、大野、島根、坂野、幡羅(はら)、和泉、和射
海部郡