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ヒトラーは第六軍のスターリングラード死守

ヒトラーは第六軍のスターリングラード死守を命じたが、ルーマニア軍の最高指揮官イオン・アントネスク元帥は脱出を主張。長い協議の末に脱出が決定され、マンシュタイン元帥に指揮が委ねられた。マンシュタイン元帥は12月11日、第6軍の救援作戦「冬の嵐作戦」を開始し、最後の予備兵力であったホート将軍の装甲軍団を送りこんで南西部から進撃していった。この方面のソ連軍の配備は手薄だったため進撃は順調で、スターリングラードに取り残された第6軍兵士は、最後の望みである救出部隊の戦闘音が近くなるのを喜んだ。先頭の部隊は照明弾を第6軍に向けて撃ち、第6軍の脱出は可能になるかと思われた。しかしヒトラーから死守命令を受けていた第六軍パウルス将軍は脱出を拒否する。さらにソ連第2親衛軍がドン河畔で攻勢に出てからは激戦となり、救出部隊の進撃は停止する。救出部隊は戦力不足のため、損害も日に日に多くなっていた。クリスマス以後、ソ連軍はスターリングラードの包囲網を狭め、状況はさらに悪化。12月26日、このままホート装甲軍団を失っては予備兵力がなくなり、東部戦線全体が崩壊すると危惧したマンシュタイン元帥はドン川南から全面的に退却を始める。これ以後、SS将校やヒトラーに脱出を認められた将官達は、兵士たちを残したまま輸送機でスターリングラードを去っていった。

スターリングラードに取り残されたドイツ第六軍と第4装甲軍の一部と同盟国軍のルーマニア軍・ハンガリー軍(約33万人)は、ドイツ空軍の輸送機による補給で辛うじて命をつないでいた。既に兵士一人への1日の食料はパン50gとなっていた。運のいい負傷兵(約4万人)は輸送機で病院へ運ばれたが、ほとんどの兵士はチフス、栄養失調、凍傷等で命を落としていた。市内には1万人以上の市民が残っていたが、ドイツ兵達は彼らから食料を接収せざるを得なかった。兵士も市民も飢えに苦しみ、軍馬や犬、最後には人肉を食うしかなくなるケースすらあった。1月に入るとソ連軍は包囲網をさらに狭め、ヒトムニク飛行場が攻撃され、70機以上の航空機が地上破壊された。

1月8日、ソ連軍は第6軍に名誉ある降伏を求めたが、パウルス上級大将はヒトラーの命で拒否。翌々日にはソ連7個軍の攻勢が始まり、陣地は次々に突破されていった。1月14日、ヒトラーの下にビンリッヒ・ベーア大尉が送られて戦況を報告し降伏交渉の許可を求めるが、ヒトラーは断固としてそれを認めなかった。1月30日、ヒトラー政権誕生10周年の党大会でヘルマン・ゲーリングは「少し残酷に聞こえるかもしれないが、ノルウェー・アフリカ・スターリングラードでの兵士の死は大きな問題ではない。最終的には我が軍の勝利する地となるからだ。」と演説。ヨーゼフ・ゲッベルスも「この困難を乗り越えてこそ真の勝利者となれるのだ。」と述べ、スターリングラードでの敗退を決め付け、第6軍の兵士たちを見捨てた。そしてこの日、ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させる。ドイツ軍の歴史に降伏を選択した元帥はおらず、すなわち昇進は自決を意味する。しかし翌日、南部のパウルス元帥及び彼が率いるドイツ軍は降伏した。2月2日には北部のドイツ軍も降伏した。小規模な戦闘は3月まで続いた。

生き残りの10万人のドイツ兵は捕虜となったが、収容所までの移動により2万人が死亡する(歩けない者は射殺だった)。このときソ連は各地で鉄道が爆撃されていて食料補給さえまともにできなかったが、軍は支給される食料の半分を捕虜にまわしていたというが、それでも飢えとチフスによりさらに5万人が死亡。シベリア・カザフスタンに移送される際に1万3,000人(貨車に乗せられて、食事は三日に一度だった)が死亡。さらに移送先のラーゲリでは石炭・ウラン採掘という過酷な労働をさせられて次々に命を落とし、最終的には5,700人しか生き残れなかった。

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2008年12月27日 15:14に投稿されたエントリーのページです。

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