日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党、公明党をはさんで保守の自由民主党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。共産党は、「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」と主張していた。
しかし、社会党内部には社共の協力より社公民の協力を重視すべきだという意見があり、これがしだいに力を持った。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。
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1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員・支持者が共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して、共産党の排除が進んだ。
日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。